Krishnamurti 死について    Ver 1.42




ひとは、実際に生きている間に、
この「死」と呼ばれるものの意味を知る、
あるいは経験するということができないでしょうか。
私の意識がはっきりしており、肉体的に元気がいい間に、
私が「死」と呼ぶそのものを、直接に経験できないでしょうか。

問題は、死の向こう側に何があるか、
あるいは、どうやって死の恐怖を免れるかではありません。
心が、それ自身のために一連のできごと―経験、記憶―を蓄積しているかぎり、
あなたは死の恐怖を避けることはできません。
なぜなら、そのすべての終わりが私たちが実際に怖れているものだからです。

確かに、継続性を持つものは創造的ではあり得ません。
瞬時瞬時、あらゆるものに対して死ぬ心だけが死とは何かを本当に知るのです。
それは、多くの洞察、調査を必要とすることです。

私たちは生きている間に、生と同様、死を知ることができます。
生きている間に、未知のもの、死の家に入ることができます。
しかし、心が―それは既知のもののかたまりなのですが―未知のものに入るためには、
それが知ってきたすべてのもの、
それが集めてきたすべてのものの終わりがなければなりません。

そのすべてを拭い去ることが「死ぬこと」なのです。
そのとき私たちは「恐怖がない」ということを知るでしょう。

私たちは死の意味を知ることができるでしょうか。
心は過去の残留物なしに、完全に「何でもない」ことができるでしょうか。

それができるかできないかは、
私たちが調べ、探究し、見出すため懸命に取り組むかどうかによります。
しかし、心が単にそれが生と呼ぶ、この蓄積の過程に執着しているに過ぎないなら、
そして、もう一方のものを避けようとしているに過ぎないなら、
そのとき、それは生も死も知らないのです。

それゆえ問題は、
それが無垢にされ、死であるもの、知られることのないものを理解することができるよう、
心を既知のものから―それが集め、知り、収集し、経験してきたあらゆるものごとから―
解放することができるかどうかなのです。



あなたは、このままあなたが現にそうであるままに継続するか、
あるいは毎日死ぬかのどちらかです。
毎日―あなた自身に対し、あなたの悲しみに対して―死ぬ。
あなたは毎日その重荷を片づけ、
それゆえ、あなたの心は新鮮で若々しく、無垢です。

無垢(innocence)とは、「傷つけられることがない」ことを意味します。
傷つけられることがない心を持つということは、
「多くの防御壁を作り上げた」ということを意味しません。
それとは反対に、そのような心は、
葛藤、快楽、苦痛―心が知ったすべてのものごとに対して死んでいくのです。
そのときのみ心は無垢です。

それは愛することができるということです。
記憶と共に愛することはできません。
愛は思い出の、時間の事柄ではないからです。

それ故、生、愛、死は分離していない全体なのです。



あなたは知っているすべてのものに対して、明日を待たず、
今すぐ死ぬことができるでしょうか。
この自由が、永遠であり、至福であり、愛なのです。



不滅について、私があなたに語ろうとしていることは理解するのが難しいでしょう。
なぜなら私には、不滅は観念ではないからです。
それは「ある」のです。
これは非常に難しいことです。

不滅はあるのです―私がそれを知っているとか信じているとかいうことではなく。
違いが分かって欲しいと思います。

「私は知っている」と言うとき、不滅は対象化された静的なものになってしまいます。
しかし、「私」がないとき不滅はあるのです。

「私は不滅を知っている」と言う人に用心しなさい。
なぜなら彼のいう不滅は静的なものだからです。
そこには二重性があります―
「私」があり、そして不滅であるものがある。
二つの異なったものがあります。

私ははっきり言いますが、不滅があります。
そしてそれは「私」がないからです。

さて、どうか「私は不滅を信じません」と言わないで下さい。
私には信じることは不滅と少しも関係がありません。
不滅は外部のものではありません。
しかし信じるなら、主体と客体とがあるに違いありません。

私が存在すると言う、その不滅を理解するためには、
心は継続と非継続と云う考えから自由でなければなりません。
人が「不滅はあるのですか」と尋ねるとき、
それは個人として継続するか断滅するかどうかを知りたいのです。
反対物の見地から、二元性の見地から、
存在するのかしないのかと尋ねているに過ぎません。
二元性の観点から私の答えを理解しようとするなら、あなたはまったく失望するでしょう。

私ははっきり言いますが、不滅はあります。
しかし、その不滅を実感するためには、
心とハートは、「私」という意識を生み出す葛藤を伴った同一化から自由でなければなりません。
そして自己意識の絶滅という考えからもまた自由でなければならないのです。



不幸にも私たちは、生と死を分けてしまいました。
私たちの生―この生とは一体何なのでしょう。

理論的には何とでも言えますが、実際に、現実に観察するなら、
それは矛盾、葛藤、対立する欲望、欲求を伴う果てしのない苦闘に過ぎないでしょう。
それが私たちが生と呼ぶものであり、私たちはそれにしがみつきます。
そして、それを終わりにするどんなものも私たちは死と呼びます。

終わることを恐れて、私たちは信念を持ちます。
輪廻、復活、霊的進化―それらすべては逃避です。

重要なのは、次の生であなたが何であるかではなく、
今、あなたがどう生きているかなのです。
心がまったく時間なしに生きることができるかどうかなのです。

この「時間=過去」の問題を本当に理解しなければなりません。
今日を通り抜け明日を形づくる、記憶としての過去。
その、時間の結果である心は、過去から自由であり得るでしょうか。



死ぬことです。
瞑想と呼ばれるこのものに、ふと出会うことができるのは、これを知る心のみです。
このすべてを理解することなしに瞑想することはできません。

「現に存在するもの、あるがままのもの」が真実である訳ではありません。
しかし、「現にあるもの」を理解することが真実への扉を開きます。
あなたが実際に、現に存在するものを、ありのままのあなたを、
あなたのハートで、あなたの頭脳で、あなたの感情で理解するなら。



愛を理解することは、死を理解することです。
もし私が過去に対して死なないなら、どうして愛を知ることができるでしょう。
もし私が、自分自身のイメージと相手に対するイメージとに死なないなら、
どうして人を愛することができるでしょう。
このすべてが瞑想の美と驚異です。
このすべてにおいて人は何ものかに出会います。
言葉の真の意味において、宗教的で静謐な心にです。



継続するもののなかには、新しいもの、創造的なものはないのです。
「新しいもの」があり得るのは、この継続の終わりがあるときだけです。
しかし、私たちが恐れているのは、この「終わり」なのではないでしょうか。

それでは、「生きながら死んでいく」と云うことは可能でしょうか。
明日新しく生まれ出るために、毎日毎日、刻々に死んでいくということが....
そのとき初めて「生きながらの死」と云うことを知ることができるのです。
そのような死―刻々の終わりのなかにのみ、新生と創造とがあるのです。



選択の葛藤を通して、心は多くの記憶の層を確立してきました。
心はこれらの層と同一化し、そしてそれを「私」と呼びます。
そして、その「私」が尋ねます―
「死ぬとき私に何が起こるのだろうか。私は終わるのだろうか、存続するのだろうか」と。

これらの質問は切望と混乱のもとに生まれます。
重要なことは、この選択の葛藤から心を解放することです。
と云うのは、このように自分自身を解放してしまったときにのみ「不死」があるからです。

たいていの人にとって不死という観念は、
時間のなかでの私の終わりのない継続です。
しかし私ははっきり言いますが、そのような捉え方は間違っています。
「それなら」―あなたは応酬します―「完全な絶滅があるに違いありません。」
私は言いますが、それもまた真実ではありません。
完全な絶滅が、「私」と呼ばれる限定された意識の終わりの後に続くという考えは
誤っています。
あなたはそんなやり方で不死を理解することはできません。
と云うのは、あなたは反対物に心さらわれているからです。

不死はあらゆる反対物からの自由です。
不死は、心が「私」の葛藤から完全に自由である調和のある行為です。

私ははっきり言います―
不死、私たちの概念や理論や信念のすべてを超える不死があります。
あなたが反対物について十分な理解を持つときにのみ反対物からの解放があるでしょう。

心が選択することを通して葛藤を作り出しているかぎり、
「私」という形をとった、記憶としての意識があるに違いありません。
死を恐れ、それ自身の継続を思い焦がれるのは、この「私」です。
故に「完全なる行為」の十全さを―それが不死ですが―理解する能力がないのです。

多くの宗教が継続性を断言し、人々はそれを信じます。
あなたも又、それを信じるかもしれません。
しかし私には、それはほとんど意味のないことです。
そのような生と死の間には常に葛藤があるでしょう。
あなたが不死を知るときのみ、始まりも終わりもありません。
そしてそのときのみ行為は無限です。

それゆえ、私はもう一度言います―
再生という考えにはほとんど意味がありません。
「私」のなかに永続的なものは何もありません。
「私」は葛藤を抱えた一連の記憶から構成されています。
あなたは「私」を不死にすることはできません。
あなたの思考の全体的な基盤は一連の達成であり、
したがって、継続的な努力、継続的な意識の限定なのです。
にも関わらず、あなたはそんな風に不死を理解・実感すること、
無限のものの法悦を感じることを望むのです。

私ははっきり言いますが―不死は実在です。
あなたはそれを議論することはできません。
あなたは、十全さ、完全さ、英知から生まれ出た行為のなかで、
不死を知ることができます。
しかし、その十全さを、精神的な指導者や教義に従うことによって獲得することはできません。

行為の十全さ、行為のなかでの存在への完全な気づきがあるときにのみ英知は生じます。
そのとき、あなたは、あなたを英知に導くと称する本と導師のすべてが、
あなたに何も与えることができないことを知るでしょう。

限定された意識によって―それが「私」ですが―作り出される
あらゆる個別性の感覚から心が自由であるとき―
その時のみ、不死で永続的であるものを知ることができます。



私たちは皆、死があるということは知っています。
肉体的な有機体は終わるでしょう。
それは疲れ果ててしまい、使い尽くされてしまうからです。
そして私たちは死後の継続があるかどうかを知りたい。
私たちが知り、経験してきたものごとはみな終わるでしょう。
それで、それから後、私たちに何が起るのだろうか、と尋ねます。

これは世界中の問題です。
東洋では、再生が信念として受け入れられています。
私たちは再生が事実かどうかを知りたい。
私たちは、有機体、神経反応、思考を持っています。
それで、思考は死後も継続するのかどうかを尋ねるのです。

さて、その質問をするとき何が起こっていますか。
実のところ、私たちは継続したいのではないでしょうか。
でなければ、私たちはあらゆるものを終わらせたいと言うのです。
どちらの場合も、心はそれに適合する理論を選ぶことでしょう。
あなたが再生を信じるか信じないかには、何の重要性もありません。
そうではなく、問題の真実、死についての真実を見出すことができるかどうかです。

私たちは皆、永遠に存在する魂があると思いたい。
そして、魂がこの肉体を超えた精神的な実体であるということを教えてくれる
様々な教義を受け入れます。
しかし、信じることは、どんなに心地よく、どんなに安定を与えてくれようとも
死とは何であるかの理解を私たちにもたらしません。

確かに、死はまったく未知の何かです。
それは完全に新しい何かです。
私たちが、それをどんなにして調べても、
満足させてくれる答えを見出すことはできません。
私たちの知っているすべては時間の領域内にあり、
そして私たちがそうであるすべては、過去の記憶と経験の蓄積なのです。

私たちは、「私の家」「私の名前」「私の家族」「私の知識」として、
記憶を通して自身の独自性を確立してきました。
そして、この「私」が未来に継続することを望みます。
でなければ私たちは、「死はあらゆるものの終わりだ」と言いますが、
それもまた解決ではないのです。

私たちは死についての真実を発見できるでしょうか。
私たちが「私」の継続を求めていることが分かります。
思考は絶えず永続性を求めています。
それ故、何らかの形の継続があるに違いないと言うのです。

思考が継続なのではないですか。
そして継続したいと云う欲望があるかぎり、
私たちは「私」という観念に強さを与えるのです。
思考は継続するかもしれません。
それは別の形を取るかもしれません。
それが再生と呼ばれるのです。
しかし継続するものが測ることのできないもの、
始めも終わりも持たないものを知ることができるでしょうか。
それは創造的であり得るでしょうか。

確かに、神、あるいは真実は、時間の領域内に見出すことができません。
それは過去からの何かではなく、
私たち自身の希望と恐怖から作り出された何かではなく、
まったく新しい何かであるに違いありません。
にも関わらず、心は永続性を求めているのではないでしょうか。
そして「神は永遠だ」「私は来世で継続するだろう」と言うのです。

そこで、いいですか、
問題は再生があるかどうかではなくて、
此処と来世で、私が永遠性・安全を求めているという事実なのです。

心がどんな方向であれ安全性を求めているかぎり、苦痛は続くでしょう。
それが蓄積してきたすべてに対し、日々、瞬時瞬時、死ぬ心だけが
真実が何であるかを知ることができるのです。
そしてそのとき、たぶん私たちは生と死の間に分割がなく、
私たちの知っているような時間が存在しない、
まったく違った状態だけがあるということを知るでしょう。



刻々に死ぬこと。
多くの昨日に対し、たった今過ぎ去った瞬間の記憶に対し、刻々に死にゆくこと。
精神が記憶の自動機械であるかぎり、
それは、静謐も、沈黙も、決して知ることはないであろう。



質問者:死後に何が起こるのでしょうか。そしてあなたは生まれ変わりを信じますか。

クリシュナムルティ:彼が若くても老年でも、それが東洋であれ、ここ西洋であれ、
これはあらゆる人間に触れる、非常に複雑な問題です。
それは本当に非常に注意深い調査を、
しかも単に特定の信念による同意や拒絶に過ぎないのではない調査を必要とします。
それで、どうかそれを、共に、非常に注意深く、考え抜きましょう。

死は私たち全員にとって避けられない終わりです。
私たちはそれを知っています。
私たちは、生まれ変わり、復活などを信じることによって、 それを合理化するかもしれません。
その未知のものの膨大な不確定さから逃れるかもしれません。
しかし恐怖はなおそこにあるのです。

身体、肉体的有機体は、
ちょうど機械がそれ自身をすり減らしてだめにしてしまうように
必然的にだめになっていきます。
私とあなたは、病気、事故、老年が来て死んでゆきます。
しかし、それは私たちの本当の問題ではありません。
私たちの問題は、もっとより深いものです。

私たちは、私たちが得、理解し、集めてきた物事を失うのを恐れています。
存在しなくなることを恐れています。
未知のものを恐れています。

私たちは生きてきました。
蓄積し、学び、経験し、苦しんできました。
私たちは自己を高めるため修養し、鍛錬し、修行してきました。
そして死は、そのすべての終わりなのでしょうか。

私たちは、そうだと思いたくはありません。
そこで、「いいや、来世があるに違いない」と言うのです。
生は続くに違いない、それはどこか他のところで続くに違いない、と。
そういう訳で、私たちの多くは、生まれ変わりの理論という慰めてくれる信念を持つのです。

私には信念は重要ではありません。
なぜなら、観念、理論を信じることは、
どんなに安楽でどんなに満足でも、死についての十分な理解を与えてくれないからです。

確かに、死は、まったく未知の、完全に新しい何かです。
私がどんなに心配してそれを調べ上げたにしても、
それは相変わらずいつも私が知らない何かのままなのです。
私たちが知っているすべては過去のもの、過去のものの継続です。
私の家、私の家族、私の名前、私の獲得物、徳、苦闘、経験と記憶―
そのすべてが「私」なのです。
そして私たちは「私」が継続することを望みます。
そこで確かに、私たちはこの問題の真実を見出さなければなりません。

生まれ変わりについて、
あなたがたまたま信じる、あるいは信じないということは問題ではありません。
しかし、死後に何が起こるのかを尋ねるかわりに、
私たちは「死とは何であるか」ということの真実を発見できないでしょうか。

なぜなら、生そのものが死の過程であるかもしれないからです。
なぜ私たちは死から生を切り離すのでしょうか。
私たちは、生が継続の、蓄積の過程であると思うのでそうするのです。
そして死は、私たちが蓄積してきたすべての終止、全滅なのです。
それで私たちは、生から死を分離してしまいます。
しかし、生はまったく異なったものであるのかもしれません。
それは私たちが知らない真実の過程、
各々の瞬間に生き、そして死んでいく過程であるのかもしれません。

私たちが知っているすべては継続の過程です。
―私が昨日そうであったもの、私が今日そうであるもの、私が明日そうでありたいものの。
それが私たちの知っているすべてです。
そして心は、その継続に執着するが故に、それが死と呼ぶものを恐れるのです。

さて、生きている心が死を知ることができるでしょうか。
問題が分かりますか。
それは死後何が起こるかという問題ではありません。
そうではなく、生きている心、病的でない心、十分に油断がなく、気づいている心は、
それが死と呼ぶその状態を経験することができるでしょうか。

私たちは生とは何であるかを本当に知っているのでしょうか。
私たちの言う「生きている」こととは、
「記憶に対して死ぬこと」という意味からすれば「死ぬこと」であるのかもしれません。
どうか、このことに注意を払って下さい。
そうすれば多分、「死」というこの観念に含まれている膨大なものが分かるでしょう。

私たちは既知のものの領域内で生きているのではないでしょうか。
既知のものとは、私たちが自分自身と同一化しているもの―
私の家族、私の国、私の経験、私の仕事、私の友達、徳、特質、
私が集めてきた知識、私が知ったあらゆるものごとのことです。

心は既知のものからそれ自身を解放することができるでしょうか。
すなわち、私は私がヨロヨロする老人になってからではなく、
今、これまで蓄積してきたすべてのものに死ぬことができるでしょうか。
私がなお、活力、明晰さ、理解力に満ちている間に、
私は、私がそうであった、私がそうなろうとしている、私がそうであるべきだと思う、
あらゆるものに死ぬことができるでしょうか。
すなわち、私は既知のものに死に、あらゆる瞬間に死ぬことができるでしょうか。
私は生きている間に死を招き、死の家に入ることができるでしょうか。

あなたは既知のもの―
あなたが集めてきたすべて、あなたがそうであるすべて、
あなたがそうであると思い、そうでありたいと望むすべてである
既知のものから自由であるときにのみ、死の家に入ることができます。
そのすべてが完全に止まなければなりません。
そして、そのとき、生きることと死ぬことの間に分断があるでしょうか。
それとも、まったく違った心の状態だけがあるのでしょうか。

あなたが単に言葉に聞き入っているだけに過ぎないなら、
いま話されつつあることの意味を理解しないだろうと思います。
しかし、あなたが本当に耳を傾けているなら、
生とは、あらゆる瞬間に死にゆくことの過程であり、
再生することであるのを、あなた自身で知るでしょう。
そうでないなら、あなたは本当には生きていません。
あなたは単に既知のものの領域内で継続しているに過ぎません。
あなたがそうであったあらゆるものに対し、多くの昨日に対し、
意識的に、聡明に、十分な気づきをもって死ぬときにのみ、
確かに、生きていることはあるのです。

そのとき死の問題はまったく異なったものとなります。
まったく問題がないのかもしれません。
時間がまったく存在しない心の状態があるのかもしれません。
時間は、既知のものとの同一化があるときにのみ存在します。
既知のものの重荷を負った心は、絶えず未知のものを恐れています。
それがするかもしれない何であれ、
その信念、その教義、その希望が何であれ、
それらはみな恐怖に基づいています。
そして、生きていることを堕落させるのはこの恐怖なのです。



恐怖は、重荷、それもひどい重荷である。
そして、その重荷を完全に取り除くとき新しい何かが起こる。

しかし人は終焉を恐れている。
人生の終わりにある終焉か、さもなければ現在の終焉のいずれかを。

空しいことを終わらせることだ。
なぜなら終焉がなければ始まりなどないからである。
我々は決して終わることのないこの継続性に囚われている。
全面的、完全な終焉があるとき、まったく新しい何かが始まる。



秋、寒い季節の訪れと共に葉が樹から落ち、そしてまた春に再び現われる。
同様に私たちは昨日のあらゆるもの―
蓄積物と希望のすべて、経験してきた一切の成功に対して死ぬべきなのではないだろうか。
それらすべてに対して死に、再び明日生まれることによって、
新しい葉のように新鮮で感じやすく鋭敏であるべきではないだろうか。

絶えず死につつある人にとって死はない。
が、「わたしはひとかどの人間であり、存続しなければならない」と言う人―
その人には常に、死、火葬場があり、また彼は何の愛も知らない。



死は既知のものの終焉です。
それは肉体的器官の終末を意味します。
「私である」という記憶すべての終末を意味するのです。
「私」とは、記憶以外の何者でもないからです。
そして、「私」と云われるこのものは、その全てが消え去ること―
つまり死が恐いのです。

死は執着の終末です。
つまり、五十年近くも無縁なものではなく、
生命を奪い去る病を待つものでもなく、
生きながら死ぬことなのです。
と同時に、ある結論、ある個性、経験、執着、苦痛などがなくなること、
死ぬことなのです。
と云うことは、生きながら死と連れだって生きることです。

すると死は、遥か彼方の何かではなく、
事故や病や老齢等でもたらされる、人の一生の終わりにある何かでもなくなります。
それは、あらゆる事柄の記憶の終末であり、死であり、
生きることと別なものではないのです。



ひとは始終、死と共に生きることができるでしょうか。
つまり、私はあなたに愛着を持っている。
「その愛着を落としなさい」ということは一種の死ではないでしょうか。

ある人が貪欲で、その人が死んだとき、
その人は貪欲を携えていくことはできません。
ですから貪欲を終わらせることです。
一週間後や十日後にではなく、今、それを終わせるのです。

そうすれば、ひとは、活力、エネルギー、可能性に満ちた生、注意深い生を生き、
この世の美しさを見、そしてまた直ちにその終焉、つまり死を見ることになるでしょう。

ですから、死の前に生きるということは死と共に生きるということです。
それは、時間なき永遠の世界に生きているということです。
ひとは、自分の得るものすべてが絶えず終焉していくような生を生きています。
そこには常に、とてつもない運動があり、特定のところに固定されることもありません。
これは概念ではありません。

死を招くとき―すなわち、自分が掴んでいるものすべてを手放し、日々刻々それに訣別するとき、
あなたは見出すことでしょう。
いや、そうなったら「あなた」ではありません、
見出す「あなた自身」というものも、もはや存在しないからです。
なぜなら、その時、「あなた」は消え去ってしまっているからです。
そうなったら、私たちが「時間」として知っている運動の存在しない
「永遠の次元」という状態があります。
それは、自分の意識の中身を空っぽにしたため、時間が一切なくなったことを意味します。
時間が終焉する・・・・それが死なのです。



日毎に死ぬ人は死を越えている。
死ぬことは愛することである。
美は過去の追憶のなかにも明日のイメージのなかにもない。
愛には過去も未来もない。
あるとすればそれは記憶であり、愛ではない。

死になさい。するとそこに愛がある。





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